静岡民医連
『民医連における被爆者医療の歩み −運動・組織的課題を中心に−』

聞間元 静岡民医連・浜松佐町診療所所長(当時)


 1955年8月6日に広島で開かれた第1回原水爆禁止世界大会で、原水爆禁止と被爆者救援が全国民的な支持を得て確認されて以来、被爆者医療への取り組みは原水爆禁止運動に参加する全医療人の課題として提起されてきました。

 民医連における被爆者医療へのとりくみは1953年の全日本民医連結成前後から広島などいくつかの院所で先駆的にはじめられていました。1954年3月のビキニ水爆被災事件の際はただちに民医連と新日本医師協会の合同調査団が現地焼津や築地魚市場などに派遣され、乗組員家族や関係者の健康調査を行なっています。しかし、全日本民医違の医療活動方針上に「被爆者医療」が登場したのは、1966年の第14回総会からでした。

 この年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は〃つるパンフ〃と呼ばれる「原爆被害の特質と被爆者援護法の要求」を作成し、これはその後の全国的な被爆者運動の発展に寄与する大きな武器となったのです。

 こうした情勢のなかで、翌1967年3月、歴史的な第一回「全国民医連被爆者医療研究集会」が広島で開催されました。理事会を代表してあいさつした佐藤副会長は集会の目的について、@披爆者医療の考え方と治療についての意思統一A被爆者医療活動をつうじて原水禁運動への貢献をめざす民医連としての全国的な取り姐みの強化をあげています。この時の参加者は、28都府県39院所76名に、原水協関係5、被爆者団体21、大学研究者など7、合わせて100名となっていますが、被爆者医療に取り組んでいる院所はまだ少なかったため(当時一般疾病の指定をうけている院所は50%にすぎず、検診指定はわずかに3病院、認定医療は広島民医連福島生協病院だけであった)、専門家による講義など研修会的な内容を含んでいました。集会では、広島をはじめ東京、群馬、神奈川、奈良、大阪から先進的な院所の被爆者訪問実態調査、集団検診、治療の経験、被爆者組繊作りなどの活動報告があり、このなかで治療法の確立、ABCC(原爆傷害調査委員会)の評価、被爆者への差別問題、全国的な統一カルテの作成などが討論されました。そのまとめは第3回被爆者医療研究集会での峠副会長のあいさつでも紹介されていますが、被爆者医療をすすめる基本的な視点が5点にまとめられ、あわせて民医連院所が一般健診や認定治療などの指定を早急に取得することが提起されています。

 1968年5月、被爆者運動の全国的な前進におされて「特別措置法」が公布され、原爆症の認定制度や、「特別手当」「健康管理手当」「介護手当」などの諸制度が発足したことは被爆者医療にとって新たな問題を提起されたことになりました。

 つづいて1970年5月に神奈川県湯河原町で開催された第2回被爆者医療研究集会には、25院所43名、被爆者5名、原水協活動家14名が参加しています。分科会では認定疾病の問題や集団健診が取り上げられ、第1回に引き続いて被爆者組織との提携が討論されています。そのなかで特徴的なこととしては、医療機関、被爆者、原水協活動家の3者の共同協カが強調されたことです。なおこの時点で一般疾病指定医療機関は161ケ所、認定指定は11ケ所、健診指定は20ケ所と報告されています。

 第3回被爆者医療研究集会は被爆29年後の1974年10月に東京で開催されました。この集会ではそれまでの2回の集まりと比べ、運動・組織面で全国的に大きな前進があったことを証明する充実した内容となっています。

 第1に、被爆者医療に積極的に取りくむ院所の拡がりがみられました。広島、東京、犬阪に続いて長崎、千葉、北海道、徳島、愛知、岩手、福岡からの報告がなされ、全国方針の見事な実践的展開が各地でされています。このなかでは、徳島での医学生との共同家庭訪問調査、福岡の各職種からなる被爆者医療グルーブの取り組み、岩手の被団協との共同詞査、千葉の民医連、被爆者の会、原水協の3者協力による健診の取り組みなどの先駆的経験が注目されます。

 第2に、この集会に、当時の平和運動の微妙で複雑な分裂状況のなかで日本被団協の役員をはじめ各県の被爆者の代表25名が参加するなど、被爆者との協力関係が深まったということです。このことは、後の1977年の国連NGO被爆問題シンポジウムの準備のなかで、民医連が日本被団協との協力関係を活かして全国の被爆者の調査で大きく貢献したことにつながったのでした。

 当時日本被団協の事務局長であった伊東壮氏は講演のなかで、「被爆者はみんな隣の医者にかかれるようにしてほしいというのです。しかし、みんな民医連に行く。なぜかというと医療の質がいいからです。質というのは被爆者の立場に立って、被爆者のトータルな状態が判断できるかできないかということです。」と述べています。

 1975年12月、米ソの核兵器開発競争の激化のなかで、「核兵器全面禁止国際協定締結核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団」は、全米各地で活動した後、国連のワルトハイム事務総長に会見し、国違がイニシアチブをとり、広島.長崎の被爆の実相を全世界にひろめるとともに、核廃絶の世論を喚起することを要請しました。その際、代表団は事務総長にたいし広島・長崎の原爆被害とその後遺について報告書を提出することを約束しましたが、後日まとめられた報告書のなかの医学的報告の部分については民医連関係者の努力に負うところが大でした。これに応えて翌1976年2月、国連NGO軍縮特別委員会は「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」の開催を決議しました。

 日本国内でも日本被団協をはじめこれまで被爆者間題にかかわってきた団体、個人の間でこの国際シンポジウムを成功させるための準備が始まり、民医連も世話4団体の1つとして大きな役割を担うことになりました。1977年2月に開かれた民医連第二回評議員会はこのNGO国際シンポジウムの成功のために、全職員の協力、とくに全国各地の被爆者の実情についての一般調査、医学的調査への協力を呼びかけました。このなかの医学的調査は25都道府県115病院.診療所640名の調査者によって715名の被爆者を対象に行なわれましたが、それには多くの民医連職員の奮闘があったのです。

 この国際シンポジウムの成功のための準備活動は、国内においては14年ぶりに原水爆禁止世界大会が統一して開催される力となり、国際的には翌1978年に第1回の国連軍縮特別総会(SSDI)を開催させる力のひとつになったということができます。

 このように被爆者医療という原点につねに立ち返りながら、被爆者に学び、被爆者とともにすすめる原水爆禁止運動こそ民医連の歴史的伝統として確立してきたものといえるのです。

 第4回披爆者医療交流集会は1984年5月に大阪で開催されました。独自集会としては前回から実に10年ぶりの開催となりましたが、その間には第4回、第5回の民医連学術集談会で被爆者医療の分科会がもたれています。集会の名称が「研究集会」から「交流集会」に変更されたのは、「被爆者医療の持つ性格から研究会活動にとどめることは不適当である」という全日本民医連理事会の判断によるものです。

 この間、先に述べた国連NGO被爆問題国際シンポジウム(1977)、・国連軍縮特別総会(SSDI、1978)など世界の反核平和運動の前進がありましたが、一方国内政治では、1982年に打ち出された厚生大臣の私的諮問機関「原爆被爆者対策基本間題懇談会(基本懇)」の意見報告をきっかけに、原爆被害にたいする国家補償を否定し被爆者援護からの撤退をすすめるという逆流が始まっていました。こうした政府の被爆者対策の後退は被爆者医療の現場にも一定の影響を与え、例えば健康管理手当申請の却下件数の増加などに現われたのです。

 この交流集会では、被爆者医療といわれるものを民医連内の次の世代にいかに継承していくのかというテーマが大きな問題点として挙げられました。そしてこうした問題の解決のためには、被爆者医療を県連あるいは院所全体の医療活動のなかに正しく位置づけることと、県連あるいは院所管理部の果たす役割重要性が指摘されています。

 また、民医連全院所が原爆医療法に基づく各種の指定医療機関を取得することの運動上の重要性、とりわけ各地の被爆者団体の協力を得て健診指定医療機関になることが緊急の課題であることが強調されました。

 さらに、被爆40年を迎えようとしているなかで、被爆者の高齢化による被爆者援護のますますの重要性は、独り民医連院所の間題でなく、行政機関、原水協、被団協との違携を強化しつつ、反核平和の運動にとけこんでいる地域の生協、婦人団体などとも結びついた援護体制を求めているとい、問題提起や報告がなされています。

 つづいて翌1985年、長崎で第5回被爆者医療交流集会が開かれました。この集会の特徴は、被爆40年をむかえた被爆者の"こころ、からだ、くらし"の全体像をつかむことで、新たな被爆者医療の発展をめざそうということでした。したがって全体として学習的、研修会的な内容になっています。なかでも「こころへの対応」と題した中沢正夫医師の報告は、被爆によりどのような心の障害がおこってくるかについての精神科領域からの貴重な報告でした。今も被爆者の心を一番傷つけていることが〃死の恐怖"と"生き残ったことへの罪の意畿"であることが指摘されています。(その後東京民医連・代々木病院精神神経科の「被爆者37例にみられた精神障害」と題する研究報告が医学雑誌に発表されています。

 1985年には厚生省としてはじめての原爆死没者調査をふくむ被爆者実態調査がおこなわれましたが、日本被団協は内容が不十分だとしてこれに合わせて独自に原擾被害者調査を行ないました。民医連もこの被団協調査に協力し、全国で2000人の被爆者について直接調査にあたりました。これは全体の15%に相当する数です。この調査は、その後、長崎松谷訴訟の有力な武器(証拠)となり長崎地裁での勝利判決に大きく貢献しました。またその調査の概要は「ヒロシマ・ナガサキ死と生の証言」として1994年に刊行されています(新日本出版社)。

 同時期(1986年3月、8月)に民医連としても独自の被爆者死没者調査を行ないましたが、15県連27院所から186例が集められました。これは第15回学術集談会で報告され、被爆時20歳代の癌死率が高いこと、癌の診断の遅れが目立つこと、医療特別手当や介護手当の申講がまだ低いことなどが浮き彫りとなっています。また1988年の民医連第28回総会方針では、1988.年度から厚生省の予算に被爆者がん検診費用が計上されたことを重視して、「がんを見落とさないとりくみをいっそう強化するとともに、その医療要求を全面的にとらえていくことが重要」としています。

 なお、1987年第15回学術集談会では、高知のビキニ被災漁船員の健診の取り組みが報告され、隠されたビキニ被ばく者の掘り起こしという新しいテーマとともに、地域の高校生平和ゼミナール、原水協や平和運動との多面的な協力形態が注目を集めました。

 この調査は1986年4月と11月に土佐清水市と室戸市で行なわれていますが、18名中4名に癌手術の既往があり10名に好中球やリンパ球、血小板などの白血球滅少症が認められるなど、注目すべき結果となっています。ビキニ事件当時1954年だけでも第五福竜丸以外に全国で850船を超える漁船が汚染海域で操業し、漁獲物や漁具、船体から放射能を検出されています。これらの漁船の乗組員も数万人に上るはずであり、これらビキニ被災者にたいする健康調査は福竜丸を除いて全く行なわれてこなかっただけに、高知の取り組みは先駆的なものでした。

 1989年、第6回被爆者医療交流集会が神戸で開催されました。これには21県連1直接加盟から71名の参加がありました。

 この中での広島の田阪正利医師の被爆者医療の歩みと民医連の被爆者医療についての報告は、氏自身の真撃な闘いの記録であり、この分野の先駆者としての豊かな経験に基づいたものでした。とくにチェルノブイリ原発事故など被ばく問題の国際化のなかで民医連の責任は重くなっているとの指摘、被爆者の高齢化とその死は単に医学的な間題でなく、被爆者の被害史、生活史のまとめとして見落としてはならないことがあると述べていることは、今日の被爆問題を見通した重要な指摘です。

 またこの集会では、がん健診をふくむ医療内容の改善・強化、各種手当申請、とくに認定申請(医療特別手当)の意義と問題点、被爆者組織との結びつきを強めるための意識的な努力を払うことなどがあらためて強調されました。集会の参加者や院所の数が伸びていないなかで、若い医師の参加が多かったことも評価されています。
1988年民医連被爆者がん検診のまとめが報告されていますが、広島原対協のデータと比較すると、胃癌が高く、肺癌は少ないという結果になっています。

 つづく1991年民医連被爆者がん検診のまとめでは全体として受診率が低下しており、胃癌では発見率は半滅し、肺癌では受診者数が40%強増加したにもかかわらず発見者ゼロでした。報告した院所数も前回の41から35と減少しており、受診率の向上をはかることとあわせ今後の調査に検討の余地を残しました。

 なお、1995年には民医連としてはじめての被爆者肝疾患調査が行なわれました。短期間の取り組みにもかかわらず、17県連45院所から650例を超える報告が寄せられ、被爆者のウィルス性肝疾患・肝硬変・肝臓癌管理の取り組みの重要性があらためて確認されています。

 1988年には長崎松谷訴訟がはじまっています。原告の松谷英子さんは3歳のとき爆心地から2.4qで被爆、爆風で飛んできた瓦で頭部外傷を負い、その傷がもとで運動障害が出現したのですが、2回の認定申請に国は2キロメートル以遠であることを最大の理由として却下したのです、この裁判は、被爆者にたいし、一貫して原爆症の認定を制限してきた国が裁かれたものです。また「基本懇」の立場が正しいかどうかも問われるという裁判でもあります1993年5月、長崎地裁は原告の全面勝訴となった画期的な判決を言い渡しましたが、不当にも国が控訴したため福岡高裁での審理に移されています。今後長い裁判となる可能性が大ですが、最終的な勝利を勝ち取るまで、全国的な支援活動が必要です。

 最近の被爆者医療の問題は、国際的な反核平和運動のたかまりと、旧ソ連の核事故・核実験被害の実態やアメリカやイギリス、さらにはフランスの核実験被害の実態が明るみになってきたことで大きく変わろうとしています。民医連の医師がこうした世界の核被害の実態調査に参加する機会が増えてきましたが、この見地にたった先駆的なとりくみが肥田舜太郎医師らによってすでに1982年に行なわれています。
 被爆国日本の民医連として世界の核被害者(ヒバクシャ)の問題を取り上げていくことは、ふたたぴ被爆者を作らないための運動の一部であり、核戦争の防止、核兵器の廃絶のためにたたかうことの一部であることがあきらかになっています。

 被爆50年にあたる1995年、国連NGO軍縮特別委員会は日本準備委員会との共催で再び広島で被爆50年国際シンポジウムを開催しました。77年シンポジウムの際のような大規模な調査活動は提起されませんでしたが、民医連はその成功のために尽力し、原爆被害の医学的影響、第五福竜丸乗組員の後遺障害、マーシャル諸島民の医学調査報告など今日的な間題の解明に寄与する報告を行ないました。今後の民医連の国際的活動は日本の平和運動の発展と結びついて、ますます重要になるとかんがえます。

 また、原子力発電や原子力施設における労働者の被ばく間題、環境核汚染の間題も私たちは避けて通ることはできません。この点でもかつて民医連は、核燃料の研究開発に従事した20歳の青年の白血病死問題を取り上げ、労災認定を勝ち取ったという先駆的経験を有しています。今日、青森六ケ所村の核燃料サイクル関連施設の建設が進行し、すでに一部の施設は稼働しています。1995年12月にはプルトニウム利用を狙って造られた高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム火災事故が発生しました。原発使用済み燃料の再処理によって生じてくるブルトニウムをウランと混ぜ(MOX燃料)稼働中の原発で燃やそうという「プルサー.マル計画」も日程に上っていますが、この分野での取り組みの発展はこれからの課題です。

 こうした状況のなかで、1996年11月、7年ぶりに第7回被爆間題交流集会が青森で開かれ、22県連47名が参加しました。なお、この隻会からみたび名称が変わりましたが、これは従来の被爆者医療への取り組みをさらに発展させて、新たな核被害・放射線被害をも視野に入れていく現実的な必要性が生じてきたためです。このことを反映して原発や核燃料サイクル施設などの原子力施設の間題が初めて取り上げられた集会となりました。記念講演には国際的にも注目されているチェルノブイリ原発事故後の小児甲状腺癌の問題がとりあげられ、広島・長崎の被爆者医療の経験がいかに役立てられているかを学ぶ機会となりました。また今後の被爆者医療にとってもっとも重要な課題の1つに後継者対策がありますが、集会に医学生や着手医師、若手の職員の参加がみられたこと、今までになく放射線技師の参加がみられたのも特徴的なことでした。

 被爆50年経て今なお国家補償の精神に基づく真の原爆被爆者援護法の実現をめざす被爆者とともに、核のない平和な世界を21世紀に残すために、私たちは気持ちを新たにして被爆問題に取り組んでいかなければならないと考えます。

出典『民医連医療の理論 2被爆者医療』 全日本民医連医療活動部編 (株)保健医療研究所  

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