静岡民医連
『ビキニ被災・第五福竜丸の悲劇は今もつづく』

聞間元 静岡・浜松佐藤町診療所医師(当時)


 1954年3月1日未明、マーシャル諸島のビキニ環礁で、広島型原爆の約1000倍の威力を持つ20メガトン級の水爆が炸裂した。この爆発で生じた死の灰によって、少なくとも4つの直接的な被爆者群が生みだされた。ロンゲラップ島民86名、ウトリック島民157名、実験を観測していたロンゲリック島に駐留のアメリカ兵28名、そしてビキニ島より東北に約140キロ、環礁の中心より170キロ離れた海域でマグロ漁の試験操業をしていた日本の焼津を母港とする第五福竜丸の乗組員23名である。

 4つのグループのなかでは、福竜丸乗組員の被ばく線量は当時の発表で170〜700レントゲンとされており、他の3つの群の被ばく線量に比してはるかに高かったため、帰港途中から乗組員の全員が吐き気や脱力、皮膚熱傷、脱毛などの急性放射能症状におちいり、帰港直後には高度の造血機能障害に陥った童症患者もでて長期の入院治療を余儀なくされたのである。

 またその後も中止されることなく続けられた一連の核実験のために、太平洋は放射能で汚染され、雨や海水で被爆した日本漁船は千数百隻にのぼり、大量の放射能マグロが廃棄され、漁業関係者の生活に深刻な影響を与えたのである。
 福竜丸乗組員のなかの重症者のひとりであった無線長久保山愛吉さんは、全国民の願いも虚しく、「原水爆の儀牲者は私を最後にしてほしい」という遺言を残して6ヶ月後の9月23日に亡くなった。これを後に日本の原水爆禁止運動は燎原の火のごとく広がり、広島・長崎に続く核兵器の様牲者が3たび生まれたことに対する日本国民の不安と怒りは日に日に高まった。

 核の被害の実相が世界に広がることを恐れた米国政府は、まだ乗組員が退院できず闘病を続けている最中に、対米従属的な日本政府を抱き込んで、福竜丸乗組員への慰謝料的見舞金とマグロ廃棄にたいする水産業界への補償金による政府決着をはかり、ビキニ被災事件の幕引きを図ったのである。当時の主治医や、被爆者医療の最高権威とされていた都築正男東大名誉教授が、乗組員の深刻な後遺障害の可能性を指摘し、アメリカとの補償交渉にはそれが含まれねばならないと主張されていたのに、この意見は無視されたのである。

 あれから41年、福竜丸の23名の乗組員のうち、久保山さんに続いて7名が若くして亡くなった。肝臓癌で3名、肝硬変で2名、大腸癌と肝臓癌の重複癌で1名、交通事故死1名である。最近の私の聞き取り詞査で、生存乗組員の大多数が」急性放射能症期の免疫学的機能不全状態で受けた輸血によると考えられるC型肝炎ウィルスに感染しており、うち何人かの乗組貝はすでに肝癌や胃癌などの悪性腫瘍を発症し闘病中であるという深刻な健康障害があることが判明した。

 福竜丸の乗組員は40年前の日米政府の交換公文により、今後一切の法的責任を問わないとする政治決着以後科学技術庁・放射能医学総合研究所による年1回の追跡調査以外には何の公的援助もなく、日常の健康管理を含めてすべて自らの負担で今日まで過ごしてきた。

 若く健康な青年たちは、長い戦争の後やっと訪れた平和な海のうえで思いがけなく遭遇した水爆実験により、遠洋漁業の漁師として生きる夢を絶たれるとともに、三重の被害を受けることとなった。ひとつは放射線による人体への被害、そして急性放射能障害の治療で受けた輸血に因る被害、さらに被災者の人権を無視した一方的な政治決着によって後遺障害への補償を閉ざされるという人権に対する被害である。
第五福竜丸事件は41年経ったいまでも決して終わっていない。残された15名の乗組員とその家族にたいし、完全な救済が一刻もはやく実現することを訴えるものである。

(1995年「被爆50年国際シンポジウム」第2セッション報告)

出典『民医連医療の理論 2被爆者医療』 全日本民医連医療活動部編 (株)保健医療研究所

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