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浜松佐藤町診療所の自己紹介
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| ●浜松佐藤町診療所・訪問看護ステーションあすなろ 医療・福祉宣言 |
浜松市には民医連の前身である無産者診療所がありました。
浜松衛生組合(のちにプロレタリア医療組合に改称)の実費診療所が無産者のいのちと生活をまもるため、4割引の薬価にて診療していました。そして日本無産者医療同盟の方針にしたがって活動するようになりました。
その診療所の名前は「浜松無産者診療所」といいます。
「浜松市民診療所準備会」(会長・田中昇、書記・鈴木勇)が1932(昭和7)年8月に成立、11月頃まで元城町の加藤清医師宅で診療活動を行いました。
医療組合は組合員約300人、健康会の班組織へ発展し、班世話役を選出したり、立て看板の作成、ニュースの発行を行っていました。
一端閉鎖された診療所は、「浜松市民診療所」と改称して1933(昭和8)年1月18日に大工町25番地にあった病院の空き家を借りて再開。6〜8ヵ月間活動しましたが、1933(昭和8)年の夏、鈴木事務長が逮捕された後閉鎖されました。
入院室も10床あり、いつも満床だったそうです。内科を加藤医師、外科をミネノ医師(本名不詳)が担当、小児科を担当した医師は不明です。それぞれ開業しており、無給で診療所の診療にあたっていたそうです。
診療所が閉鎖され数年後、加藤医師が死亡。鈴木事務長は無産者診療所の再々建が不可能となったため、医療利用組合遠州病院の設立運動に参加していきました。
「浜松市民診療所」を支援した地域の方々には田中昇(のち村長)、木俣スズ子、鈴木清一、山崎光雄、百木照好、岸徹志(歯科医師)、坪井愛二など多くの方がいました。
戦後の運動は、1958(昭和33年)年に社団法人共生保健福祉会が住吉町7番地につくられ、保健福祉事業が行われたり、診療所建設のための調査・検討が行われたりしましたが、いずれも中断しました。
1971(昭和46)年静岡市に田町診療所が誕生し、秋には静岡勤労者医療協会が結成されました。73(昭和48)年に勤医協で浜松への民診建設計画が議題となり、75(昭和50)年勤医協総会で三ヵ年計画を策定されました。
1978(昭和53)年4月16日、西部民主診療所建設をすすめる会が結成され、元目町に事務所を置きました。
そして「浜松佐藤町診療所」は1980(昭和55)年3月1日、浜松での無産者診療所の伝統と歴史を受け継ぎ、住民の熱い期待を背負いオープンしました。
この「医療・福祉宣言」は、浜松佐藤町診療所・浜松佐藤町福祉サービスセンター・訪問看護ステーションあすなろが加盟する全日本民主医療機関連合会(略称:全日本民医連)の「綱領」にもとづいて、どのような医療活動・福祉活動に取り組んでいくのか明らかにした患者さんや友の会のみなさんへのメッセージです。
一.私たちの医療機関は、地域住民によってつくられました。
だから、安心して住み続けられるまちづくりをすすめます。
一.私たちの医療機関は、労働者・農民・中小業者によってつくられました。
だから、働くもののいのちと健康を守ります。
一.私たちの医療機関は、患者さんによってつくられました。
だから、患者さんが主人公の医療をめざします。
一.私たちの医療機関は、患者さんの権利を守る人たちによってつくられました。
だから、医療・介護の安全性の向上に努めます。
一.私たちの医療機関は、在宅患者さんを抱える家族によってつくられました。
だから、地域にうってでて、医療・介護・福祉制度を活用し、よりよい在宅医療・福祉サービスの向上をめざします。
一.私たちの医療機関は、平和を願う人々によってつくられました。
だから、戦争政策に反対し、浜松基地の市民への返還を求めます。
一.私たちの医療機関は、被爆者によってつくられました。
だから、被爆者の健康管理をすすめるとともに、核兵器の廃絶をめざします
浜松佐藤町診療所・浜松佐藤町福祉サービスセンター・訪問看護ステーションあすなろの職員は、これらを実現するため、静岡西部健康友の会や県西部地域のすべての住民と協力して活動していきます。 |
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